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新規事業の撤退判断は、どの指標で下すべきか—「まだ可能性がある」を言い続ける組織の末路

立ち上げ後のスケールで止まる新規事業は22.9%。GTMフェーズで止まる45.2%という数字の陰で、もう一つの事実が隠れている。止まった事業の多くは、公式には「中止」ではなく「継続検討中」のまま、会議の議題に残り続けている。
「まだ可能性はある。もう半期だけ見てみよう」——新規事業の定例会議で、この言葉を一度も聞いたことがない事業責任者は少ないはずです。この判断を下した人物に特別な甘さがあるわけではありません。多くの組織で、継続と撤退を分ける基準そのものが最初から存在しないためです。
本稿では、新規事業の継続・撤退判断がなぜ長期化するのかを、日本PMM市場レポート2026のデータと、意思決定科学の公開研究から整理します。判断の「正しい答え」を提示するものではなく、自社がどの観点で足元を点検すべきかを扱います。
1. 撤退基準とは何か
撤退基準とは、新規事業の継続と終了を、期待や感情ではなく、あらかじめ定めた指標と期限によって判断するための取り決めを指します。
多くの企業では、この基準が「事業計画書」の中に一応の数字として存在します。初年度売上目標、損益分岐点の年度、獲得顧客数——これらはいずれも計画段階で設定されます。問題は、事業が計画どおりに進まなかったときに、この数字が誰の手でどう更新されるかが決まっていないことです。
目標が未達になった瞬間、多くの組織では基準そのものが見直しの対象になります。「市場環境が変わったから」「立ち上げ初期は想定より時間がかかるものだから」—理由はどれも一定の説得力を持ちます。そしてその説得力ゆえに、基準は守られるものではなく、都度調整されるものに変わっていきます。
撤退基準が機能するための条件は、実はシンプルです。基準を作った時点と、基準を評価する時点の間に、評価する人の利害が入り込まないこと。 これが崩れた瞬間、どれほど精緻な基準を作っても意味を失います。
事業計画書に数字があること自体は、ほとんどの企業で満たされています。足りないのは、その数字を「誰が、いつ、どう評価するか」という運用の部分です。基準の中身よりも、基準を動かす手続きの方に、実務上の弱さが集中しています。
2. なぜ、撤退の判断が長期化するのか——3つの理由
撤退の判断が先延ばしになる背景には、主に3つの構造があります。
理由①:サンクコストが「投資」として再定義される
すでに投じた人件費や時間は、会計上は戻ってきません。ところが意思決定の現場では、この既投下コストが「ここまで育てた資産」と呼び替えられる場面が頻繁に起こります。「あと少しで花開く」という感覚は、多くの場合、残りの可能性ではなく、すでに費やした労力の大きさに比例して強くなります。
理由②:検証の節目が、節目が来るたびに延長される
当初の事業計画では、半年後や1年後に「このKPIを満たしていなければ見直す」という節目が置かれているのが一般的です。しかし実際にその節目が訪れると、「もう少しで市場が立ち上がる」「競合の動きを見てから」といった理由で、評価そのものが次の節目に持ち越されます。節目は本来、判断を強制するための装置ですが、運用の中でいつの間にか、判断を延期するための言い訳に転用されます。
理由③:止める権限を、誰も単独では持っていない
新規事業の立ち上げを承認した経営層、現場を率いる事業責任者、投資判断に関わる管理部門——撤退には複数の利害関係者が絡みます。立ち上げのときは「誰が旗を振るか」が明確でも、終わらせるときに「誰が止めるか」が明確になっている組織は多くありません。結果として、明確な反対がないまま、惰性で継続される状態が生まれます。
誰も反対していないという事実は、誰かが積極的に継続を支持しているという事実とは違います。多くの会議では、この両者が同じものとして扱われています。
3. 新規事業が止まる場所は、思っているより後工程にある
新規事業が最も止まりやすいのは、アイデアを形にする企画フェーズではなく、市場に出した後のGTM(Go-To-Market)フェーズです。日本PMM市場レポート2026では、新規事業が停滞するフェーズとして、GTMフェーズを挙げた回答者が45.2%と最多を占めました。次いで立ち上げ後のスケールフェーズが22.9%、企画フェーズが18.7%、開発フェーズが13.3%という結果です(出典:日本PMM市場レポート2026/プロデリア・パートナーズ、n=166)。
この分布を素直に読むと、「市場に出す前の検証を強化すればよい」という結論になりそうです。しかし数字の意味はもう一段深いところにあります。GTMフェーズとスケールフェーズは、どちらもプロダクトが市場に出た後の局面です。新規事業の停滞は、企画や開発の段階よりも、プロダクトが「すでに市場に出ている」状態に集中して発生しています。
言い換えれば、多くの企業がリソースを最も厚く割いているのは、まさに撤退判断が最も難しくなる局面です。プロダクトはできている。初期の顧客もついている。チームも稼働している。この状態で「止める」という判断は、企画段階で「やらない」と決めるよりも、心理的にも組織的にもはるかに重くなります。撤退基準の設計が本当に必要なのは、立ち上げ前ではなく、まさにこの重さが生まれる地点です。
企画フェーズでの停滞(18.7%)は、多くの場合「承認が下りなかった」という形で終わります。これは痛みを伴いますが、意思決定としては単純です。一方、GTMフェーズとスケールフェーズでの停滞は、「誰も終わらせていないが、誰も前に進めていない」という、判断が存在しない状態として長く続く傾向があります(同調査)。
4. 事例:「やめられない」心理を証明した、ある実験
心理学者バリー・ストーの研究は、組織が失敗しつつある取り組みへの投資を止められない現象を、実験的に示した初期の研究として知られています。
実験では、参加者に架空の企業の財務部門への投資判断を委ねました。一部の参加者には最初の投資判断を自分自身が下したという設定が与えられ、別の参加者には他人が下した判断を引き継ぐという設定が与えられます。そのうえで、最初の投資が思うような成果を出していないという情報を提示し、追加投資を続けるかどうかの判断を求めました。
結果として、自分自身が最初の決定を下したと認識していた参加者は、他人の決定を引き継いだ参加者よりも、業績が悪化している部門への追加投資を選ぶ傾向が強く見られました。意思決定の質そのものではなく、「自分がこの道を選んだ」という責任の自覚が、継続判断を後押ししていたのです。
この研究から読み取るべきことは、撤退判断の難しさが能力や情報量の問題ではないという点です。最初の決定者自身に、その決定の継続・終了を判断させる仕組みそのものが、合理的な撤退を構造的に妨げます。新規事業においても、立ち上げを主導した人物が同時に継続可否の最終判断者である場合、同じ力学が働くと考えるのが自然です。
重要なのは、この実験の参加者が特別に判断力の低い人たちではなかったという点です。「自分が決めた」という感覚の有無だけで、同じ情報を前にした判断が変わりました。つまり対策として有効なのは、個人の判断力を高めることではなく、「決めた人」と「続けるかどうかを判断する人」を制度的に分ける設計です。
出典:Staw, B. M. (1976). "Knee-deep in the big muddy: A study of escalating commitment to a chosen course of action." Organizational Behavior and Human Performance, 16(1), 27-44.(DOI: 10.1016/0030-5073(76)90005-2)
5. 撤退を決める前に、自社に立てるべき3つの問い
ここまでの整理を、自社の新規事業に当てはめて点検するための問いを3つ置きます。答えはここには書きません。
問い①:撤退の判断権限を、事業を立ち上げた本人以外が持っているか。
立ち上げた人物が同時に継続・終了の最終判断者になっている場合、ストーの実験が示した力学がそのまま働きます。承認ラインのどこかに、事業の立ち上げに直接関与していない視点が入っているかを確認する価値があります。
問い②:当初設定した節目が来たとき、誰がその評価を行う予定になっているか。
評価の担当者が決まっていなければ、節目は自動的に先送りされます。カレンダーに日付だけを置くのではなく、評価する人の名前まで置けているかを確認する価値があります。
問い③:撤退を「負け」ではなく「学習コストの刈り取り」として扱える言葉と評価の仕組みが、社内にあるか。
撤退した事業責任者の評価が下がる仕組みのままでは、どれだけ基準を整えても、現場は基準を破ってでも継続を選びます。
「まだ早い」と「もう遅い」の間にあるもの
新規事業の撤退判断において、本当に難しいのは「まだ早い」のか「もう遅い」のかを見極めることではありません。難しいのは、その見極めを行う仕組みそのものを、事業が順調なうちに作っておくことです。
事業が傾き始めてから基準を作ろうとすると、その基準は必ず、傾いている現状を正当化する方向に引き寄せられます。基準が意味を持つのは、まだ誰の利害も絡んでいない、立ち上げの初期段階でしか作れません。
22.9%という数字が示しているのは、立ち上げ後のスケールフェーズで足を止めている新規事業が、今この瞬間にも社内に存在するという事実です。問題は、その事業が悪いかどうかではありません。問題は、それを判断する基準と権限が、どこにあるのかということです。
撤退基準を事後に作ろうとする試みは、たいてい失敗します。それは基準作りの技術が足りないからではなく、基準を作ろうとする時点ですでに、誰かの利害がその基準に影響を及ぼしているからです。基準を持つべき最適なタイミングは、事業の調子が良く、まだ誰も傷つかない今このときをおいて他にありません。
よくある質問(FAQ)
Q. 新規事業の撤退基準は、どうやって決めればいいですか?
A. 撤退基準は、事業を立ち上げる前の、まだ誰の利害も絡んでいない段階で、数値と期限をセットで定めておくのが基本です。立ち上げ後に作ろうとすると、現状を正当化する方向に基準が引き寄せられやすくなります。
Q. 新規事業はいつ撤退すべきですか?
A. 一律の時期はありませんが、あらかじめ定めた評価の節目で、当初の仮説が崩れたままになっていないかを確認するタイミングが目安になります。日本PMM市場レポート2026では、新規事業の停滞はGTMフェーズ(45.2%)とスケールフェーズ(22.9%)に集中しており、この2つの局面での節目設計が特に重要です(出典:日本PMM市場レポート2026)。
Q. 撤退のタイミングを逃す会社に共通する特徴は何ですか?
A. 典型的には、撤退の判断権限が事業の立ち上げ本人に集中していること、当初の評価節目が延長を繰り返されていること、撤退を「失敗」として扱う組織文化が強いことの3点が重なっています。
Q. サンクコストバイアスとは何ですか?
A. すでに投じた時間やコストを惜しんで、客観的には不利な判断であっても投資や継続を選んでしまう心理的な傾向を指します。心理学者バリー・ストーの実験では、最初の決定を自分自身で下した人ほど、この傾向が強く表れることが示されています。
Q. 新規事業の継続判断は誰が行うべきですか?
A. 事業の立ち上げに直接関与していない視点を、承認プロセスのどこかに組み込むことが望まれます。立ち上げた本人だけが継続・終了を判断する体制では、合理的な撤退判断が構造的に難しくなります。
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